Jungla de Cemento 南米在住アーティストのブログ

la voz del paraguay〜パラグアイで音楽、アート活動をするTomikoのブログ!Noisy Graphics! Rebel Music!

パラグアイのヌエバ・カンシオン第一人者『マネコ・ガレアーノ』

Hola!
Tomikoです!

今日は、CICO & TOMIKOのニューシングル『Soy de la Chacarita』

この曲を作ったパラグアイヌエバ・カンシオンの第一人者である
Maneco Galeanoさんを紹介します!

上の動画は私たちのカバーバージョンです。
ヌエバ・カンシオンといえば、チリのビクトル・ハラやビオレッタ・パラ、アルゼンチンのメルセデス・ソーサやレオン・ヒエコ、キューバシルビオ・ロドリゲスなどなどご存知の方も多いのではないですか?

 

Cico & Tomikoの新曲の一つ、

パラグアイ音楽のカバー、ソイ・デ・ラ・チャカリータです。

ぜひ聞いてみてください。

 

 

 南米が軍政に苦しんだ頃、伝統音楽・フォルクローレのメロディに乗せ、新しい音楽を奏でたNuevo Cancioneroと呼ばれるアーティストたち。

独裁政権下のパラグアイにももちろん存在しました。

しかし、その第一人者であるマネコ・ガレアーノと言う人を世界中でどれだけの人が知っているでしょう。

 

maneco galeano

 

おそらく日本で彼の名前を聞いたことのある人はほぼいないと思います。

 

第二次世界大戦終戦の年にパラグアイに生まれたガレアーノ氏はパラグアイ内戦の時。首都アスンシオンに向かう父からギターを譲り受け。音楽に目覚めたと言われています。

 

その後、父親の仕事でアルゼンチンに移り住み、パラグアイからきた同世代のアーティストとオーケストラを組んだそうです。大学で再びパラグアイに戻り、新聞記者として働く傍ら、楽曲制作に勤しみました。

 

既にストロエスネル独裁政権下のパラグアイです。

少しずつ音楽家としての評価を重ね、大きな水害が起きた年、ガレアーノ氏はこのSoy De La Chacaritaと言う曲を被害にあったChacarita地区救済のためのチャリティコンサートで披露しました。

これがガレアーノ氏のはじめの代表曲となりました。

 

検閲を逃れるため、フォルクローレパラグアイグアラニア音楽)を用い、貧困や不公平、そして災害を受けて希望を忘れないことを歌った歌です。

 

Chacaritaと言う地区は首都でも有数のスラム街です。ブラジルのファベーラを連想するとイメージが湧きやすいかもしれません。

パラグアイ川のほとりにある集落で、一万人以上が暮らし、人口密度は約6,970人/km²で首都の人口密度約4,457人/km²を大きく上回っています。パラグアイ人でも立ち入りが困難な場所です。外部の人が入ると、窃盗や暴行の被害を受けることも少なくありません。この表現は偏見に満ちているのかもしれません。

過去には日本人殺害事件もあったため、通常日本人は絶対に近寄ってはいけないと言われている場所です。

 

報道などによると、大人は昼間からドラッグを常用し、子供たちはそれを片目に路地の至る所でサッカーをしている。とのことですが、真相はわかりません。

ただ残念ながらドラッグと銃は身近なものであり、他の町より犯罪率は高く、ゴミや衛生問題、治安問題、そして地盤の弱さから水害の問題が常に横たわっているという部分はあまり間違っていないようです。

 

息子の学校にはこのChacarita地区から通う子供も少なくありません。

ということで私はみんなが騒ぐ部分というものは実際みておらず、普通のクラスメイトの暮らす地区でしかないんですが。。中にはセントロの公園で靴磨きをしている子もいます。息子は日本人であること、発表会で歌を披露していることもあり、とても知られていて、歩いていると路上の子供たちにいつも声をかけられます。

すごく複雑な気持ちになります。息子の同級生が夜に働いているんですよ。。
まぁ我が家もよく路上で歌ってお金をもらっているので同じですね。
今はコロナで無理ですが。。

 

チャカリータ・アルタと言われる地区は再開発もあり、私でも立ち入りができるほどに治安が落ち着いてきています。それでも不要な立ち入りは十分に住民の方への配慮がいると思います。

もともとたくさんの家が立ち並んでいる地域で、そこにズケズケと入りカメラを向けるのはプライバシーを侵害していることになります。

自分の家の前でカメラを撮って、観光客に珍しいと騒がれて嬉しい人なんていないですよね?
少なくとも私は少し気分が悪くなります。

 

そこから更に下って川に近付いていくと、景色は一変します。

地盤だけでなく、衛生的にもかなりよくない状況で多くの人が暮らしているのです。

頻繁に水害が起き、避難を余儀なくされたり、先日は地崩れで大きな被害が出ました。

去年の年末は大火災に見舞われ、100世帯以上が家を失いました。

 

この曲が生まれた年も大きな水害がありました。

歌詞と日本語訳は↓↓↓

 

cicotomiko.com

 

この曲を機に音楽家として認められるようになったガレアーノ氏は、パラグアイのヌエボ・カンシオネロたちとJoven Alianza(若者同盟)という芸術家連盟を立ち上げますが、すぐに警察によって解散に追いやられます。

独裁政権下で自由な表現を模索した彼らは、監視対象となり、活動を制限されてしまいました。

 

 若者同盟の時期の曲の一つにはチリのクーデターで命を落とした音楽家

ビクトル・ハラ氏を歌ったものもあります。

↓↓↓

 

 

その後、ガレアーノ氏は古いパラグアイの詩に音楽をつけたり、
伝統曲を先住民族の言語、グアラニー語に翻訳したり、

検閲を逃れながら音楽活動を続けました。

 

しかし、35歳の若さで肺がんで亡くなってしまいます。

独裁政権が終わる日を知らないまま。。

彼が表現の自由を得たら

どんな作品を残したでしょう。。

そんなことは無意味な議論です。

とはいえ、困難な時代の中、自由な表現を求める意欲を持っていた音楽家

当たり前の自由を、味わって欲しかったと感じてしまいます。

 

この曲、『Soy De La Chacarita』はパラグアイでとても有名な曲ではありますが、
国民全員が知っているというものではありません。

しかし、当時を知る歌い手たちは好んでこの曲を歌っているように思います。

私がこの曲に出会ったのは、
パラグアイの歌の歌詞がいくらか載った本を手に入れたからです。

どの曲も恋愛について歌われていましたが、

この曲は違いました。

日常を奪われること、苦しみの中生きること、そして希望も描かれていました。

美しい歌詞を読んでどんな歌か聞いてみたいと思い

検索したところ、メロディもまたとても美しく感動しました。

 

さっきも書きましたが、たとえ有名な曲であれ
歌い継ぐ人が減っているのです。

おそらく多くの若者たちは知らないでしょう。

動画を検索しても、多くヒットするわけではありません。

 

私は有名ではないけど、
この曲を歌い継ぎ、パラグアイ独裁政権下で
表現の自由を奪われたアーティストについて
語り継いでいきたいと思います。

 

そしてパラグアイの首都、最大の理不尽と不公平とも言える
La CHACARITA地区についても
小さな問題提起ができればと思います。

 

これ以上にこの地区に立ち入ることはできないし、何ができるかはわからない。
今回、カバーをすることで文化の盗用にならないため、どうすべきか本当に考えて、

この度の災害に関して、支援協力をする団体にも多く連絡しました。

しかし何もできることがありませんでした。

情けないですが、とても閉塞的な国なので、

何から何まで難しいです。お金を持っていれば別ですが。

でもそれも当然ですよね。

一番必要なのはお金ですし、きれいごとではなく。

本当の状況打破は金銭的な支援が必要です。

私には現時点でそれはできませんし、

情けないですが、チャカリータの子供たちの支援活動も行なっている

ユニセフのリンクを貼り付けています。

https://www.facebook.com/UNICEFParaguay/posts/3550759974959361

 

これでは何の役に立たないかもしれない。

でも、これが今の私にできることです。

 

AmazonでSoy de la Chacaritaと検索してみると、

少しだけヒットします。

↓↓↓

https://amzn.to/3kK3AgU

 

あと、リカルド・フレチャさんはパラグアイの有名な歌手で、
Soy De La Chacaritaを大切に歌い継いでいる人の一人です。

↓↓↓ 

 

有名といえども、、、多分みんなが知っているわけじゃないです。。

私の方が既にパラグアイのヌエバカンシオンについて一般的なこの国の人より
知識を得ているかもしれません。

この国にスターはいません。

国民に愛されるスターはいないのです。

 

前年のコスキン・ロック(ラテンミュージック界では有名な南米のフェスティバル、マヌチャオ氏もこのフェスに出演するためにパラグアイを訪れた。)のトリを務めたバンドから、ボーカルで参加してほしいと頼まれたことがありました。

けれど、バンド関係者以外は誰も彼らの名前を知らないほど。。

この国の音楽認知度はその程度なんです。

日本では考えられないと思うので、想像すらできないと思います。

 

ビクトル・リブレ(ガレアーノ氏がビクトルハラを歌った歌)

 

Youtubeでこの音源の他にこの曲を歌っているのは私だけです。

私のはスペイン語がめちゃくちゃだけど。。

それくらい、失われそうなんです。

 

 

 

リカルド・フレチャさんとともにガレアーノ氏のビクトル・リブレを歌っているのは
メルセデス・ソーサさん。アルゼンチンの歌手です。

彼女の音楽は比較的簡単に手に入りますのでぜひ。

 

パラグアイの音楽は作者が全く重要視されていません。
ただ知っている曲であるかどうかなんです。

だから、私はこの先、パラグアイに立ち寄った経験があるものとして

Maneco Galeanoさんの歌を歌い継いで、
語り継いでいこうと思いました。

 

もう独裁政権はありません。
だから私たちのリズムで。

 

数十年で消えてしまいそうな、美しい文化。

皆さんに知っていただけたら、嬉しいです。

 

おそらく私はこの国の人以上に、

この国の文化に興味を持っていると思うし

ここまでくると愛情以外のなにものでもないと思います。

 

みんなが知っているもの消えないんです。
ただ本当に素晴らしいけど、
長い間、独裁政権により片隅に追いやられてきた
美しいものは本当に意識的に残していかないと、

失われてしまいます。

 

 

xx

 

tomiko