Jungla de Cemento 南米在住アーティストのブログ

la voz del paraguay〜パラグアイで音楽、アート活動をするTomikoのブログ!Noisy Graphics! Rebel Music!

少年兵と特攻隊 15日終戦の日(日本)、16日こどもの日(パラグアイ)アコスタニューの戦い

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毎年、8月になると戦争について考える。

Hola! Tomikoです。

子供の頃、あんたはいつも戦争のことばかり

みんなに尋ねていた。

亡き母は私によく言っていた。

社会や政治のことばかりに

興味を持っていた私。

母は私が政治家にでもなるんじゃないかと

考えていたそう。

こんな世捨て人のようなダメ人間に育って

ごめんなさい。

 

8月6日、広島に原子力爆弾が投下された日

8月9日は長崎に。。

そして8月15日、ラジオ放送によって国民は日本が降伏したことを知った。

だから、日本の終戦記念日は8月15日となっている。

 

世界では、9月2日降伏文書に調印した日をもって終戦としている国がおおいと思う。

 

私が子供の頃、まだまだ多くの戦争の爪痕が

至る所に残っていた。

もちろん両親ともに戦争を経験している。

母の家は空襲で焼かれ、父はあと一年早く生まれていたら

徴兵を免れることはなかったかもしれない。

 

思春期の父にとって戦争は理不尽と

思い出したくない辛い経験でしかない。

父はとにかく貧乏を嫌い、粗末な食事を嫌い

新たな文化や発展を夢見、そこに目を向けることで

多くの辛い経験を拭い去ろうとしていたように見える。

 

もちろん、南米への移住を考えていたのも

戦争という傷から抜け出したかったからであると思う。

 

子供の頃、学校では

きっと今よりも生々しく戦争というテーマが扱われていた。

私が周りの人に戦争について尋ねるようになったのは

それが原因だった。

目を背けたくなるようなビデオを何度も見せられたのも覚えている。

原爆や空襲のことだけではない。

戦時中に行われていた教育。

当時の学校についてのビデオも見せられた。

同じ年頃の子供が遊びや未来への学びの為ではなく

国のため、得体の知れない戦争に巻き込まれていく

それを見て、なんとも言えない思いだった。

 

近くには防空壕もあったし、

戦争時代を伝えるものはたくさん残っていた。

宝塚には零戦墓地と呼ばれる場所がある。

この土地の部隊から特攻隊として戦地へと行った人々がいる。

小学生の私は特攻隊となった若者が家族や恋人に送った手紙を読んで、

涙が止まらなかった。

 

彼らはただ戦地に赴くのではない。

死ぬことを任務とされていたから。

そう国のために。

大切な人に伝える最後の言葉は

兵士であること以上に、一人の人間としての

隠しきれない恐怖や、自分のいない未来への希望、

悲しみ、そして愛であふれていた。

私にはそう感じた。

胸が引き裂かれそうだった。

 

多くの人間の人生を奪う戦争というものに

そしてそれを強制する社会や政治というものに

深い憤りと不信感、そして何より悲しみを覚えた。

 

おそらく私は戦争経験者を親に持つ最後の世代だと思う。

私の年齢ではほとんどの親は戦後生まれである。

しかし、私は生まれてくるのが遅かったから、

両親ともに戦争経験者だ。

 

私にとっては「戦争」も「戦後」も遠い過去の話ではない。

戦争経験者が少なくなっていくなか、

私のような戦争体験者の子供が

伝えていかなければいけないと思う。

 

8月15日、年にたった一回でも

立ち止まって、伝えていきたいと思う。

 

今、私は8月15日と8月16日の間の時間に

このブログを書いている。

 

8月16日という忘れてはいけない日を

パラグアイにきて初めて知った。

以前もブログで紹介したことではあるが、

やはり毎年書きたいと思う。

 

ここパラグアイには、アルゼンチン、ブラジル、ボリビアを相手に戦った

三国同盟戦争という歴史がある

1864年から1870年まで続いたこの戦争で

パラグアイは成人男性の90%を失った。

 

南米全域がコロニアであったこと、

常にヨーロッパの干渉を受けていたこと

が結局のところ戦争の要因であり

各国ともに先住民族とアフロ系移民がやはり

多く犠牲となった。

 

この三国同盟戦争でのパラグアイ

構図や要因は置いておいて、

第二次世界大戦の日本にとても似ていると思う。

無茶な争いであったこと、

多くの若者が犠牲になったことという点で。

 

かつて、国民の50%がアフロ系移民だった

パラグアイで現在その存在が認められていない理由にも

関連していると思う。

何故ならこの戦争における指揮者は

現在パラグアイの愛国精神の象徴として

作りあげられたヒーローとなっているからである。

この戦争はパラグアイアイデンティティとして

歴史が捏造された。

 

コロニアからの独立と、

アイデンティティを守るために戦ったヒーロー

という構図が作りあげられた。

しかし、これには共感の余地ももちろんある。

突然訪れた支配というものの下での暮らしを余儀なくされてきたこと。

欧州化によりアイデンティティを奪われ続けてきたこと。

そういう歴史の線上にある事実で

そのことを外国人の私が理解することは難しいからである。

 

パラグアイの歴史家の話によると、

独立を支えたのもまたアフロ系移民であったという。

100歩譲って奴隷売買がなされていなかったとしても

ウルグアイから亡命した将軍とともに大量の奴隷たちが

この国に暮らし、コミュニティを作っていた。

歴史の中で、グアラニー族は文化としてそれを伝えている。

彼らは俗にいう白人にも黒人にも恐怖心を抱いていたという。

それが現れているアフリカの儀式を模した伝統祭が残っている。

またアフロ系移民たちはグアラニー語を話していた。

グアラニー語は日本語によく似た言語と言われているが、

実際はアフリカ系の言語の方が近い。

グアラニー語を学んでいる息子なんかは

アフリカ系の言語をグアラニー語の読み方でスラスラと読んでいる。

意味は全くわからないけど、これはグアラニー語だ。

なんて勘違いするほど。。

 

もちろん、ブラジルもアルゼンチンも

三国同盟戦争の兵力とされたのはアフリカから連れてこられた

奴隷たちだったという。

奴隷売買を否定し続けているアルゼンチンもまた

この戦争でほとんどのアフロ系移民人口を失っている。

 

話を戻して8月16日は、アコスタニューの戦いという

南米史上最も悲惨な出来事と語り継がれる戦いのあった日である。

パラグアイではこの日を子供の日と定め、

二度と歴史が繰り返されないよう、

毎年子供達の幸せを祝う。

 

この日2万人の連合軍の兵士がアコスタニューという地区に押し寄せた。

成人男性をほぼ失ったパラグアイ

迎え撃つのは9歳から15歳の3500人の少年兵。

さらに小さな子供たちは水を運んだり

兵士たちのために働いたという。

少年兵たちは顔に髭を描き大人に見せかけて勇敢に戦った。。

僅か2時間でパラグアイ軍は全滅。

手伝いをした小さな子供もみんな亡くなった。

戦争ではなく、子供を相手にしたジェノサイドと言える。

連合軍の手による?子供を矛にしたパラグアイ軍も同罪ではないか。

これが南米史上最も悲惨な歴史である。

 

私はこの歴史を知って、まず特攻隊を思い出した。

死ぬと分かっている戦さに立ち向かう若者たち。

だれが

なぜ

子供や若者にそんなことをさせるのか。

 

しかし、特攻隊と一つだけ違うところがある。

それは、パラグアイでは、いいえ、南米では

この日を最も悲惨な日として記憶していることである。

パラグアイ子供の日を制定し、

今後子供たちがこのような経験をすることがないよう

プレゼントを渡し、愛を注ぎ、毎年確認するのである。

 

一方特攻隊はどうだろう。

いまだヒロイズムの犠牲になっていはいないだろうか。

もちろん、さっきも書いたように

パラグアイでもこの戦争を率いた将軍は

ヒーローとして祀られている。

愛国心を煽るため。

アイデンティティのため。

しかし、このアコスタニューの戦いに関しては正解という人は誰一人いない。

 

私たち日本人もそろそろ気付くべきだ。

KAMIKAZEはポジティブな言葉じゃない。

若者の命を奪ったこの国の恥ずべき歴史だと思う。

国が負うべき罪ですらある。

なのに尚も英雄化しようとする感覚は理解できない。

子供の頃、胸が張り裂けそうになった

特攻隊員の手紙。

私たちがすべきことは

人の人生を、日常を、愛するものを奪い去る

戦争なんて二度と繰り返してはいけないと

はっきりと認識することだと思う。

 

そして今も続く

世界中の戦火に生きる人々

理不尽に生きる人々

私たちは知らなきゃいけない。

他人事ではない。

 

私たちが生きるこの世界の上で起こっているのだから。

 

NO MAS GUERRA

 

 

xx

 

tomiko